マイノリティーへの差別が、問題になっています。
ここ最近取り沙汰されるのは、LGBTや在日外国人へのヘイト行動。自民党の議員が「LGBTは生産性がない。だから支援すべきではない」と発言したり、選挙では右翼系政党がヘイト街宣を行ったり。
しかし、少数者を排除しようとする動きは、これだけではありません。規模の大小を問わず、様々な対象に行われる過剰攻撃。知らないうちに、私たちはその片棒を担いでいるかもしれないのです。今回は、そのお話。
▶夏場所でのブーイング提案
先日、大相撲夏場所の千秋楽を米国のトランプ大統領が観戦しました。それに先立って、ジャーナリストの江川紹子氏が「心あるファンならばブーイングをしよう」と発言したのです。
明日の国技館、せめて心ある相撲ファンの方による、短くていいから、力強い「Boo❗️」の一声が出るように祈りたい。 https://t.co/NvJEUEByAm
— Shoko Egawa (@amneris84) 2019年5月25日
私は相撲ファン。だから、ふだん彼女をフォローしてはいませんが、この言葉が気になりました。そして、これに対するリプライに、違和感を覚えたのです。
- 彼女に賛同する人はほとんどいない。嘲笑すべきことだ。無視しよう。
- 大相撲に対する礼節を欠いている。
- 国賓である大統領に失礼だ。
SNS上での反応は、ほとんどがこういった批判的なもの。
そして、一番上に挙げた「少数派だから無視すべき」という意見に、私はヘイト問題にも通じる問題点を感じました。それは、対象が違うとは言え、構造が極めて似ていたからです。
▶江川氏への非難に見る3つの問題点
私の感じた問題点。それは、この3つです。
- 江川氏の意見が実際に「少数派」と言えるか疑問である。なぜなら、人間は一番最初に目にした言説に引っ張られやすいため、無意識に批判的意見に同調した人が多数いる可能性があるから(=アンカリング効果*1)。
- また、彼女に賛成する人たちも、批判ツイートを見て自分に火の粉が飛ぶのが怖くなり、賛同ツイートができなくなっているから(=見せしめ効果)。
- 少数派を無価値として嘲笑の対象にする行為じたい、正当ではない。価値観の多様性を否定しており、マイノリティ差別と同じである。
▶多様性の否定
多様性=豊かさの根源
そもそも、本当に少数派の意見は無視されるべきなんでしょうか?
世の中には、いろいろな考えの人がいます。ある特定のテーマに対して、賛成する人もいれば、反対する人もいる。そして、彼らのバックグラウンドや政治信条、置かれた環境、苦労や成功体験によって、意見は千差万別となる。これが自然です。
そして、こういった世界(=雑多な価値観の集合体)の持つ多様性こそが、精神的な、そして回りまわって物質的な豊かさの第一の前提なのです。
一つの意見しかない世界
なぜ多様性が豊かさの根源となり得るのか?例を挙げて考えてみましょう。
ある世界的問題を解決するために、10人が選ばれて会議を開いたとします。彼らは立場も利害も異なる人たち。そこで、もしたった一つの意見しか出なかったとしたら、どうでしょう?
彼らが選んだその方法には、重大な欠陥がある。一見問題を解決できるように見えて、実はたくさんの人を危険に晒してしまう。みんな、そのことに気付いているのに、なぜか言及しない。あ、あなたもそう思いますか。私もです。ええ、もちろん私も。じゃあそれでいきましょう。決定!
話はすんなりまとまるでしょう。効率的で、いいじゃないか。そう言う人がいるかもしれません。
でもこれは、多様性を排除することで、破滅的な結果を全員が無視するという選択*2。「合意を共有できた」という心地よさこそあれ、よりよい結論を出すという肝心の目的はないがしろにされているのです。
多様性に直面する苦しさ
一方で、もし考えつく限りの課題をテーブルに載せて吟味したならば、ベストに近いソリューションが生み出せたかもしれない。それは、つまり立場や利害の対立を乗り越えた先にある解のこと。これを得ることこそ、多様性を多様性のまま直視し、否定ではなく超克していくことの賜物なのです。
ただし、この直視という行為、超克に至るまでの過程は、信じられないほど苦しい。それは、自己否定(自分が信じているものを、その同じ人間として真っ向から疑うこと)と他者からの否定(価値観同士の衝突)という、不愉快極まりないものを内在しているからです。
そんなことをするくらいなら、いっそ無かったことにしたい。そして、空気に身を任せ、YESと言い続けていたい。そうすれば、傷つかずに済むのですから。
▶見せしめの怖さ
水を差せない状況を作り出す
そして、この多様性の排除は、少数派への過剰攻撃とセットになることで価値観画一化ツールとしての本領を発揮します。それは、「ちょっと待って。みんな冷静になろうよ」と水を差す人の口を封じることができるから。
誰かが勇気を持って発言しても、それを大多数が寄ってたかって叩いていれば、周囲は「こんなひどい目に遭うなら、黙っておこう」と思って当然。言わば、見せしめです。そうして少数意見は認知される前にかき消され、本人もやがて大多数の中に吸収されてゆく。
尻馬に乗る人の罪
意見には多面性があり、特定の人の利益にかなう部分もあれば、損な部分だってあります。でも、これらの側面は、言葉にする人がいて初めて認知されるもの。だから、その人がものを言えない状況を作り出してしまえば、そもそも誰も知ることができません。
自分の考えを発信する勇気がなく、ひとの尻馬に乗る人は、知らず知らずのうちに同調圧力の拡散に加担して意見の言えない状況を作り出している。そして、リツイートや「Like」機能のあるTwitterは、これが極めて容易にできるツールだと言えます。
▶私は賛成
なお、私自身は、江川さんの提案は大いにアリだと思います。それは、貴賓席があるにも関わらず大勢の観客を締め出して一般席を使い、それによって権力を誇示し、予算委員会を長期ボイコットしながらも自らの宣伝活動には躍起で、私達のなけなしの給料から毎月苦しみながら支払っている税金を実りなき媚びへつらいに消費している政権に対して甚だしい疑問を感じているからです。
なお、「一個人としては大統領の観戦は不満だが、相撲ファンとしては大歓迎」という不思議なコメントもありました。これも興味深い表現ですが、また回を改めて。
▶最後に
意見というものは、正しいか、間違っているかの二元論で割り切れるものでは決してありません。
先程述べたように、人間がいればいるほど、意見は多様になる。だから、誰かにとって心地よい意見は、他の人にとっては受け入れ難いものなのです。でも、そういった種種雑多な価値観は、苦労を厭いさえしなければ、対立ではなく調和へと向かうことができる。だからこそ、どんな考えであれ自由に口にできなければならない。表現方法の是非は別として。
大多数の影に怯えて自らを抑圧する少数派にも、ひとをそんな状況に追いやる暴力的多数派にも、私はなりたくありません。
みなさんは、どう考えますか?