明日は選挙です。
しかし、ニュースを見ても、「選挙」関連のものはほぼ見当たらない。SNSも、同じです。それだけ、政治と距離を置くことが常識化しているのか、と感じます。
決して非難したいわけではなく、ただ、今の日本の現状を再確認したのです。
私も、社会人になるまでは、政治に興味がありませんでした。選挙も行ったり、行かなかったり。周囲がそうだったので、何らおかしいことだとも思わなかったのです。
それに、生活から政治を切り離さねば、との考えもありました。
「政治と宗教の話はタブー」という(いわゆる)社会通念を真に受け、私は必死で政治の話題を避け続けました。取引先には異教徒が多いため、さすがに宗教の話は不可避。それでも日本人同士となると、まるで地雷源を歩くようにヒヤヒヤしながら「その話」にならぬよう気を配ったものです。
どちらかというと、ダメな理由を理解して避けていたというよりは、タブーを侵した時に受ける制裁が怖い。つまり、秩序を乱さぬための忌避だったと言えるでしょう。
だから、「政治的発言」(字義通りでも、いま流行の意味においても)を避ける風潮はよく理解できます。
しかし、私自身の考えが変わったのは、みずからの発達障害と向き合うようになってからでした。
あらゆる困難には原因があり、大抵は内的要因と外的要因とが存在します。そして、自分の生まれ持った特性と、そのせいで周囲になじめなかったという事実を考えあわせると、どうしても「なぜ、私はこの社会に"ありのままの姿"では受け入れられないのか」という疑問にぶち当たるのです。
それは、外的要因としての「同質性を善とする社会」がなければ、私の特性も一個性として迎え入れられたのではないか?という仮定をせずにはいられないからです。
この、排他的な日本の社会。それは、決して今の政権がひとりで作ったものではありません。大昔の封建制度や、さらにさかのぼって、狭小な国土の中でコミュニティを維持する必要性に駆られて、という理由もあったでしょう。
しかし、変えるチャンスならいくらでもあったはず。ましてや、マイノリティの存在が社会に認知され始めてしばらく経っています。彼らを抑圧から解放してのびのびと生きさせるほうが、社会全体にとってプラスになるでしょう。なのに、それを是とせず、様々な理由をつけて従来の窮屈な社会を維持しようとしている。わたしには、そう思えてなりません。
そして、こんな社会のルールを作っているのは、ほかならぬ政治家であり国家なのです。
こう考えるようになってから、私は政治について考え、政策を読み、家族とも話すようになりました。
もちろん、家族とはいえ考えは様々。だから、支持政党も政治信念も全く違います。でも、それで当たり前なのです。
人間がそれぞれ異なる境遇で生まれ育ち、異なるキャリアを経てきた以上、価値観が同じになることはあり得ません。似ていても、少しずつ違う。このことは、同質性を押し付け合う今の日本では、あまりに居心地の悪い事態です。だから、政治の話になるとケンカになり、関係が破綻しかねない。多くの人が政治を語りたがらないのも、こういった背景があるのだと思います。
いつか、こういったお互いの違いをごく自然に受け入れることができたなら。その時には、私を含め生きづらさを感じる人たちも、何のわだかまりもなく自分自身を肯定できるようになるのではないでしょうか。
その日のために、私は決して政治を語ることをやめない。そして、有権者としての権利を放棄しない。
こんな世の中の「傍観者」でいることなど、決してできないのですから。