こんにちは、
皆さんは、集団から浮いてしまった経験はありませんか?
「みんながやっていることが、自分だけ上手くできない」
「どう振る舞っていいのか分らず、大勢の中でじっとしている」
こんな思いをするのは、とてもしんどいですよね。
でも、なかなか
そこで今回は、「浮いてる子」だった私が感じていた「周囲への違和感」について、書いてみたいと思います。
「浮いてる子」の見た世界
■強烈な不安感
私は物心ついた時から、自分が「周囲から浮いた存在」だということを強く意識していました。
その感覚を一言で表すなら、「私以外の人は全て"正しい"けれど、私は全てにおいて"間違っている"」というものです。
より踏み込んだ言い方をすると、
「人間社会の中に、私という宇宙人が一人置いてきぼりにされた。どんな振る舞いが"正しい"のか分からないし、心細い。」
そんなことを、毎日考えていました。30年ほど経った今でも、当時の不安や寂しさははっきりと覚えています。
■いつから?
こんな風に思いはじめたのは、小学校に入って間もない頃でした。
小さな町だったので、同級生は殆どが保育園からの知り合いでした。そういう意味ではなじみのある環境でしたが、しかし私はどうしても彼らに溶け込むことができませんでした。
そのため、たまに遊びに誘われる以外は、休み時間をずっと机に座ったまま過ごしていたのです。
■どう思っていたか?
・「子供たち」への違和感
(戸惑い)
そんな私には、一つどうしても不思議だったことがあります。
それは、
「なぜ周りの子は、誰から教えられたわけでもないのに、自然で"子供らしい"振る舞いができるのだろう?」
ということです。
(暗黙のルール?)
彼らは、屈託のない「子供」そのものでした。
ごく自然に友達を作り、相手を笑わせるに足る冗談を言い、大人には甘えてみせ、自分の要求を叶える術を熟知していました。
先生に叱られても、おどけたフリで笑いを誘い、先生のほうも「仕方ないなぁ」とばかりにそれを許します。
彼らの様子は、まるで台本どおりに演じられる芝居のようでもあり、また暗黙のルールを全員が共有し、私にだけ黙っているかのようでもありました。
(踏み込めない「彼らの世界」)
私はずっと、「その輪の中に入りたい」と思っていました。それは「憧れ」に近いものでした。
ただ、どうしても彼らの模倣をする勇気は持てませんでした。
なぜなら、
「足を踏み入れようものなら途端に拒絶され、白い眼で見られるのではないか」
と思っていたからです。
誰から言われた訳でもないのに、そんな不吉な予感が頭から離れませんでした。
そして、私は教室の隅で、ころころとふざけ合う彼らのことを傍観するほかありませんでした。
■「大人」への絶対的尊敬
・服従
私が違和感や不安を抱いていたのは、決して子供に対してだけではありません。
実は、「大人」に対してもある種の恐怖を感じながら生きていました。
それは、
「大人の言動は、その人が誰であるかに関わらず絶対的に正しい。従って、100%間違いなく彼らに従わねばならない」
というものです。
・大人たちへの「信仰心」
例えば、家族が「お前は将来○○大学の○○学部に行きなさい」と 言ったら、それが私にとって「正しい目標」になりました。
また、「あんな雑誌を読む奴はバカだ。お前は○○社の○○しか読んではダメだ」と言われれば、それを読む同級生を軽蔑するのが「正しい行い」となり、指定されたもの以外をねだるのがこの上ない罪のように感じられました。
こうやって私は、「大人」というものに「信仰心」に近いものを抱きつつ、成長していきました。
そして、他の子もきっと同じだろうと信じて疑いませんでした。
・同級生の指摘
ところが、意外なことが起こりました。
同級生が、私の考えを「おかしい」と言ってきたのです。
「なんで親の言うことばかり聞くの?やりたいことをすればいいのに」
「大人の言いなりなんて、変なの!」
なんと、彼らにとって「大人」とは、「いい加減にあしらえる存在」だったのです。
・大人は「あしらうもの」
うるさく説教をしてくるものの、その時だけ「はい」と言っていれば、あとは自分の好きにすればいい。
大人の言う通りに行動する必要など、どこにもない。
こういう趣旨のことを、彼らは言いました。
それは、いま考えれば至極まっとうで冷静な言い分です。
・20代でのつまづき
しかし、私は「この子たちのほうが間違っている」と思いました。
そして、私の中の「信仰心」が覆ることはありませんでした。
そのまま10代が過ぎ、20代を迎え、気が付けば大人たちが納得するような進路を歩み出していました。
ところが、上手くいったはずの人生で私がぶつかったのは、「大人の言うとおりに生きてきたのに、なぜか何も上手くいかない」と頭を抱える日々だったのです。
・大人に見放され
精神科に通院する日々が、始まりました。
コミュニケーションにトラブルを抱え、自己肯定感がどん底まで落ち込んだ私は、かつて私に指図した大人たちに八つ当たりしました。
しかし、彼らの言葉はとても冷たいものでした。
「自分は何も悪くない。お前が勝手にそうしただけ」
・誰も責任を取ってくれない
ただ一度、母が彼らに「あなた達があんなことを言ったから、この子が苦しむことになったんだ」と言ってくれたことがあります。
彼女は田舎の三世帯同居という、当時まだ「男尊女卑」が色濃かった家族形態にあって、最も立場の低い存在でした。そのため、他の大人のやり方に口を出したのは、それが最初で最後でした。
恐らく、自分の子供をめちゃくちゃにされたという気持ちが、どこかにあったのでしょう。
私はそれを聞いて、少しありがたい気持ちになりました。
しかし、全てはもう手遅れでした。
母も私をかばい続けることはできず、私は初めて
「他人は偉そうに口出しするが、彼らは決して責任を取りはしない」
という大人への不信感を、はっきり感じることになったのです。
■今はどうか?
・「自分」を知った
そして、現在。
私は30代になり、医師の助けも得て、自分の認知特性をようやく理解することができました。
そして、むかし自分を苦しめた「周囲への違和感」と「他者=正しさ」信仰のことも、省みることができるようになりました。
知能検査の結果から考えると、これらはもしかしたら「あらかじめ指示を与えられたら上手く情報処理できるが、イチから何かを考え出すのは不得意」という特性が原因だったのかも知れません。
自分で発想するのが苦手なため、外部情報に100%頼ってしまうということです。
もしそれが事実だとしたら、
「子供というのはこんな風に振る舞うものだよ」
とか、
「大人は子供に期待をかけて色々言ってくるけど、気にしなくていいよ」
などと教えてくれる存在がいれば、私の半生もかなり違ったものになっていたと思います。
・次の世代に苦しみを背負わせない
ただ、過ぎ去ったものを悔やんでも仕方ありません。
私にできることは、自分の子供たちの世代に同じ苦しみを背負わせないことだと思います。
ぽつんと浮いた子がいたら、「手助けが必要かも」と気に掛けられる大人になりたい。
決して無責任な期待を押し付け、「信じる」ことしかできない子供たちを操るようなマネはしたくない。
私は、大人になった今、そう肝に銘じています。