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「他人に共感できない」という欠陥~エピソードと本人の視点~

人に共感できない 思いやり 自己中心的

「思いやりのない人」も、実は悩んでいるのです…

こんにちは、Katieケイティです。

今回は「他人に共感ができない」という困りごとについて、書きたいと思います。

皆さんの中にも、自分では普通に接しているつもりなのに「思いやりがない」と言われ、悩んだ方がいらっしゃるのではないでしょうか?

これは、とてもツライことですよね。実は、私もそんな人間の一人なのです。

他人に共感できない

■共感性の欠如とは?

共感性の欠如。

これは、「過集中」に加えて、発達障害の方に多く見られる症状だと言われています。

具体的には、

  • 相手の気持ちを考えず、思ったことをすぐに口にしてしまう
  • 相手の話をさえぎって喋るため、会話が成立しない
  • 自分が話したいことを、相手の興味の有無にかかわらず一方的に話し続ける

などが挙げられます。

私も、こういったことが原因で、今まで何度も人間関係のトラブルを起こしてきました。

そんなエピソードの中で、特に忘れられないものをいくつかご紹介したいと思います。

 

■幼少時代

・保育園で

(帰り際に)

今でもはっきり覚えているエピソードが、保育園でのことです。

その時、私はまだ3歳か4歳で、物心つくかつかないかのごく幼い女の子でした。

そんなある日、母が私を迎えに来て、いつものように二人で園の門を出ようとした時のことです。 仲の良かった女の子が、遠くから私に手を振ってくれていることに気が付きました。

 

(口をついて出た言葉)

その子とは、家も近いのでよく一緒に遊んだと思います。

最初は嬉しかったので、私も手を振り返しました。 

しかし、私が遠ざかってもその子はずっと手を振っているので、だんだん「いつ手を振るのを止めたらいいのか」と、面倒くさく思いはじめました。

そこで、私はぽつんと言ったのです。

「しつこい女だなぁ」

 

(母に叱られた)

それを聞いた母は、慌てて

「なんてこと言うの!」

と私を叱りました。

叱られて、私は「ああ、こういうことは言ってはいけないんだ」と即座に理解できました。 

しかし、指摘されたら理解はできるものの、この「思ったことをつい口にしてしまう」という癖は、年月が経ってもなかなか治りませんでした。

 

・小学校で

(校庭での出来事)

次によく覚えているのは、小学校1、2年の時のことです。

私は校庭で、同級生と遊んでいました。

自分から彼らを誘うことは全くなかったので、おそらく「遊ぼうよ」と言われて付いていったのでしょう。

 

(派手にコケた)

そんな時、始業のチャイムが鳴ったので、私たちは慌てて教室に戻ろうとしました。しかし、何かの拍子につまづいた私は、ベタっと地面に倒れ込んでしまいました。

痛いうえに、同級生に見られた恥ずかしさもあって、私はなかなか立ち上がれませんでした。

すると、彼らの一人が近付いてきてこう言いました。 

「大丈夫?」

 

(友達の配慮を拒絶)

その子は、とても思いやりのある、優しい子でした。

普通なら、「ありがとう」と言って、お礼に笑顔でも作るべきところですよね。

しかし、私は不機嫌な気分のまま、彼女にこう言いました。

「うるさい!!」 

すると、彼女の表情は一瞬にして曇りました。その顔には、露骨に不快感が現れていました。

そして、何も言わず、きびすを返して去っていったのです。

私は、「まずいことを言ってしまったな」と、その後ろ姿を見て思いました。そして、泣きたいような気持ちになりました。

 

■学生時代

・大学の同級生から絶交される

(二十歳を過ぎても治らず)

思ったことをすぐ口に出し、そして相手から拒絶される。

こんなことが、小学校以降も度々ありました。その度に私は「またやってしまった」と罪悪感に駆られましたが、二十歳を過ぎてもそのクセは全く治りませんでした。

そして、大学生の時にも、とてもショックな出来事がありました。

仲の良かった友人に、自分の発言がきっかけで絶交されてしまったのです。

 

(仲の良い友人と)

それは、4回生の秋のことでした。

殆どの同級生が就職を決め、あとは単位を満たすばかりとなった時期。

私は、親からさんざん就職をせっつかれたものの、どうしても研究がしたくて大学院の受験を決意した頃でした。内部進学でも簡単に落とされてしまう、厳しい大学でした。

そんな折、1回生の時から仲の良かった友人とばったり会い、キャンパス内のカフェでお茶を飲むことになりました。

 

(何気ない一言)

その子はとても可愛らしく、天真爛漫な雰囲気で、何となく「話しやすいなぁ」と思っていました。それが気の緩みにつながったのかも知れません。

彼女は

「とうとう就職が決まったの!憧れの○○業界で働ける」

と嬉しそうに言いました。

その業界は、私の印象では、彼女のようなあどけなさのある女性とはかけ離れた、厳しい世界に思えました。

そして、私は言いました。

「へぇ、あなたみたいな人でも就職できるんだね」

すると、彼女はニコニコして、その後も変わらない様子で接してくれました。

 

(絶交)

しかし、その日の夜、携帯電話に届いたメールを見て、私は愕然としました。

「もう絶交したい」という意味のことが、書かれてあったのです。

 理由は、

相手のことを配慮できない人間とは、付き合いたくないから」。 

その日、私が言った「あなたみたいな人でも…」という言葉が原因でした。

私は、それを見て自分を責め、声を上げて泣きました。そして、「今までありがとう」とだけ、返信しました。

  

・母の努力を否定する

(20代中盤のこと)

これだけ痛い失敗を繰り返しても、私は自分の言動をコントロールする術を身に着けることができませんでした。

「自分は知能的に何かおかしい」とは自覚していましたが、当時は「発達障害」という言葉が全く報道されていなかった時代です。

睡眠障害や抑うつなどで度々精神科を受診してはいたものの、医師からは薬を出されるだけで、知能検査の提案など一度もありませんでした。

「あなたは自己分析できる賢い人だから、知能に異常なんてないよ」

と笑う医師さえいました。

そして、劣等感を抱えたまま20代も中盤に差し掛かった頃、今度は肉親を深く傷つける事態となってしまいました。

 

(母の努力)

ある年の正月、私は実家に帰省していました。

遠く離れた場所でしたが、お盆と正月には必ず帰ることにしていたのです。

その頃、私の祖父母が体調を崩し、母がその看病につきっきりになっていました。彼女はフルタイムの仕事を抱えながら、昼休みも家に帰って2人の看病をし、毎日疲労困憊だったろうと思います。

ただ、「他人の心情を察する」という能力が低い私には、彼女がどんな思いでそれをしているのか理解することができませんでした。

 

(ミスを指摘)

そして、ある日の食卓。彼女がごく些細なミスをしてしまい、私はそれを家族全員の前で指摘しました。

すると、彼女が急に立ち上がり、私の腕を掴んで隣の部屋に入りました。

私を睨み付けた彼女は、目にいっぱい涙を溜めていました。

 

(母の涙)

「なんで、そんなこと言うの?私がどれだけ頑張っているか、あなた分かってるの?」

それを聞いて、私はハッとしました。そして、ようやく理解しました。

母は、自分の時間も作らず、ただひたすら家族の世話と祖父母の介護に全精力を傾けていました。それは「献身」そのものだったはずです。

しかし、そのひたむきな努力が、彼女の精神を徐々に追い込んでいました。そして、私が彼女の非を咎めたことで、ダムのように貯まったその苦しみが一気に溢れ出てしまったのです。

 

(後悔)

本来なら、彼女の大変さをおもんばかり、「ちょっとしたことは見逃そう」と考えるべきだったのでしょう。世渡り上手な定型発達の方なら、それが自然にできたはずです。

しかし、私には、その能力が欠如していました。それがために、彼女を泣かせるハメになってしまったのです。

母には申し訳ないことをしてしまったと、今でも後悔しています。

(なお、彼女はフルタイムの仕事を全うしつつ、立派に介護を務め上げ、祖父母を看取りました。私には到底マネできないことだと、心底尊敬しています。)

 

■「共感性の欠如」という現象

・本人の視点

さて、ここまで書いてきたトラブルは、いずれも「他人への共感・配慮ができない」ために起こったものばかりでした。

しかし、よくよく考えてみると、そこには相手や第三者の視点からは見えない「本人の視点」があることに気付きます。

つまり、「本人がどう感じ、どう行動したか」ということと、「相手や第三者がそれをどう受け取ったか」との間には、かなりの乖離があるということです。

そこで、自分なりに「共感性の欠如」という現象を考察してみましたので、ご紹介したいと思います。

 

・学習により、心情の理解は可能

各エピソードでは、私の言動が「一方的で自己中心的」と思われた結果、「思いやりのない人」「性格の悪い人」という捉え方をされてしまいました。

ただ、自分の側からこれを見つめ直すと、下記のような行動パターンが浮かび上がります。 

  • 相手が何を考えているか、想像するスキルがない*1
  • そのため、何の躊躇いもなく不適切な言動をしてしまう
  • しかし、他人から指摘されたら問題点を理解でき、反省し、相手に同情できるようになる

つまり、指摘されれば相手の心情を汲むことが可能だということ。これは、言い換えれば「全人生を通じて共感性がない」のではなく、「共感性は先天的には欠けているものの、学習によりある程度獲得することは可能」だということです。

この2つの事柄は、似ているようで少し違いますよね。本人の努力次第で、人間に対する理解を深める余地があるのですから。

 

・共感性の充実を目指して

こういった自分の「認知の仕方」に気付いてからは、さまざまな立場の人達の考え方、ものの捉え方、感情の動き方を知ろうと努力するようになりました。

いち早く共感性を充実させられるよう、色々な価値観の方と出会いたいと日々思っています。

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いかがでしょうか?

あなたの周りにいる「無神経な人」も、もしかしたら私のように「言われたら気付く人」かも知れません。

今回は、そういった人間の立場から、本人なりのしんどさを文章にしてみました。「こんな人もいるんだ」と思って頂ければ幸いです。

以上、「他人に共感できない」という欠陥(後編)でした。

 

*1:このことを「人に心があること自体知らなかった」と表現した人がいますが、私も全くそれに当てはまります。例えば、仮に一回り年上の人が自分の仕事のサポート役だったとします。その方に何かを頼むにも、定型発達なら「相手は目上だから、下手に出ながらお願いよう」と思うところですが、私は「人間は全て、その立場に即した行動を、感情を排して行うことができる。だから、仮に相手が目上でも、特別な配慮をする必要はないし、相手も年下の私から何をどんな方法で頼まれても決して怒るはずがない」と考えてしまうのです。