こんにちは、
「叱られ方」というキーワードが話題になっていますね。某公共放送局が特集を組んだアレです。私も思い当たるフシがあるので、今回はそのことについて書いてみたいと思います。
結論から言うと、「叱られ方」などどうだっていい。「ミスは叱る」という時代錯誤こそ、問題視されるべきだと思うのです。
そもそも「叱責」という形でしかひとを指導できないほうに問題がある。
— Katie_Fue_0131 (@0131KatieFue) 2019年2月21日
・何でこんなミスをしたんだ?(理由を言ったら)理由なんか聞いてない!
・何が悪いか自分で考えろ!それが君の仕事だろ
・やる気あるのか!?
こんなセリフ、嫌ほど聞いた。
どれも指導ではなく「上司のストレス解消」。残念。
「叱られる技術」は必要なのか?
■「叱られ方講習会」とは
この奇妙な名前の講習会は、新卒学生向けに某大学で開催されたもの。詳しい内容は下記サイトで閲覧できます。
概要としては、
- 入社後に上司からの叱責で悩む学生が多いため、2018年からスタート
- どんな「叱られ方」をすれば上司に誠意が伝わるかを教える
- 入社してもすぐ辞めるのは叱責への「免疫」がない(=打たれ弱い)ことが一因
- 叱責は部下への期待の表れだ
- 叱責を糧に成長できるようなメンタルを養ってほしい(副学長談)
というものです。
この内容に、大いに頷く方は多いことでしょう。
■叱責は指導ではない
・ただの「ストレス解消」
しかし、実際に上司から叱責され、また後輩を叱った経験のある自分としては、どうしてもこの講座の趣旨に賛同することができません。
それは、「叱責は指導ではない」と思うからです。
端的に言えば、ただの「ストレス解消」。
・典型的な「指導」
例として、当該講習会でのやり取りを見てみましょう。
・男子学生「今、お時間よろしいでしょうか?ハンバーガーの作り方が分からなくなってしまいまして」
・講師「この前も教えたよね?何回目かな?だいぶ締め切りがギリギリなんだけど、この時間だと困るんだよね」
・男子学生「本当に申し訳ありませんでした」(上記サイト引用)
部下が助けを求めているのに、上司はすぐ対応しようとせず、まず自分のイライラを露わにする。そしてなじる。とにかく「自分が困るんだ」とアピールする。そして部下に謝らせる。謝るまでは決して助けない(むしろ、謝っても助けない)。
あなたも、こんな場面の当事者になったことがあるのではないでしょうか。
・イライラをぶつけるだけ
今回の報道では、こういった叱り方が「正当な指導」だとする前提でした。うん、うん、そうだ。これこそが上司の愛だよ。そんなことをつぶやきながら、いかめしい顔でTVを見つめる定年退職リーマン氏の顔が目に浮かびます。
しかし、冷静に考えてください。これって、上司が部下の失敗にイライラして怒りをぶちまけているだけですよね?
・若者にはプラスにならない
もちろん、叱って育てられた方々は「叱責=上司の愛」という価値観のままでいいと思います。それで成長し、ある程度の社会的地位を築けたのであれば誰も文句は言いません。
しかし、これから社会に巣立つ学生、そしてまだまだ伸びしろのある若手社員にとっては、こんな価値観は決してプラスにはならないのです。
■後悔した過去
・叱責を正当化
なぜこんなことを書くのか?それは、私自身、「これは指導だ」と自己正当化して後輩を叱責したことがあるからです。
正直、いまでも後悔しています。申し訳なかったと。
相手は私のことを慕ってくれていますが、それでも当時を思い出すと胸が痛いのです。
私が一体どんなことをしたのか、非常に恥ずかしいですが書いてみたいと思います。
- 後輩がミスをした時、「あんなに教えたのに」とカッとなった
- 特に、別の先輩から「ちゃんと教えなかったの?」と責められた時はなおさら不快
- そのイライラから、同僚のいる前で「あの時ちゃんと教えたでしょ」と叱った
- さすがに同僚の面前はマズイと思い、その後別室で指導することにしたが、やはり「怒り」が先に立ってしまった
- その後も後輩のミスを想像して勝手に苛立ち、「一度しか言わないからちゃんと聞いて」など、相手を委縮させるようなことを言ってしまった
以前「OJTのコツ」を書きましたが、あのノウハウを身に着ける前、実はこんな失態を犯していたのです。人間として、恥ずべき行為です。
・当時のメンタル
当時の心の中は、後ろめたさと正当化の堂々巡りでした。
叱った時は、確かにスッキリします。「そうだ、これが先輩としてやるべき指導なんだ」と。
しかし、その後に必ず後悔が襲ってきて、「あんなことはすべきじゃなかった」と自分を責めました。そして、そんな苦しさを振り払うため、こう自分に言い聞かせたのです。
「いや、やはりこれは正当な行為だ。だって、私もそうされたし、先輩も”叱って育ててもらったから今の私がある”って言ってたし」
全く何の合理性もありません。ただ自分にとって都合のいい情報を引っ張ってきただけ。逆に言うと、こんな理屈を持ち出さない限り、叱責は正当化などできないのです。
■何が問題なのか?
では、指導としての叱責は、一体何が問題なのでしょうか?
それは、「叱責はいつでも正当であり、叱られた自分に非があるのだ」と受け手が思い込むことで、「思考停止」を招いてしまうことです。
つまり、
- 叱られる
- 委縮する
- 自己肯定感が低下する
- 受け身になり、創意工夫をやめる=思考停止(上司の指示/顔色をうかがう方が叱られるリスクが低いから)
- 「創意工夫がない」と叱られる
- 委縮する(以後、繰り返し)
こういった負のサイクルを生んでしまうということ。
「指示待ち人間不要論」がもてはやされた時代がありましたが、受け手が叱責を正当と思い込むことで、まさに上司の指示をうかがわないと行動できない部下が増えてしまうのでは、と私は危惧しているのです。
本人が真面目であればあるほど、このリスクは高いと思います。
■「叱る」以外の選択肢を持つべきだ
もちろん、 上記サイトに登場する講師が言うように「誠意を見せる」ことは必要です。ただし、それは前回のエントリーでも書いたように、飽くまで「処世術」(相手をやり過ごす方法)としてのこと。
当然、この講習会にもそういった意味が含まれてはいるのでしょうが、叱責を「正当な指導法」としている点では趣旨が違います。
指導とは、相手をよりよい方向に導くためのもの。
それは、その人の持つ能力を最大限に発揮させなければ実現しません。
ましてや、本人のアイデアや意見が言いにくい状況を作り出したり、無能感や自己否定を抱かせるようなやり方では、上手くいくはずがないのです。
そろそろ、「叱る」以外の選択肢について、本気で考えませんか?