池袋の事故で、「加害者から被害者家族への謝罪の有無」が話題になっています。
今回は、これについて感じたことを書きたいと思います。
池袋の事故から、「後ろめたさ」の怖さを考える
「後ろめたさ」は、人間を徐々に、しかし確実に蝕みます。
— オルタナ系主婦 Katie_fue (@FueHappy) April 24, 2019
何年、何十年前の出来事でも、それは変わりません。
やってしまった過ちは、取り戻せない。でも相応の償いをしなければ、その時は「助かった」と思っても、後々苦しむのです。
人間は、そういう風に出来ている。エラい人も凡人も、皆同じ。
▶被害者側への口止め
被害者の家族である男性は、「加害者から謝罪されたのか?」との問いに対し、「答えられない」と無言を貫きました。
この時点では、謝罪があったのか、なかったのかは分かりません。
しかし、彼が加害者側から口止めされている事は容易に想像できます。そして、それが
- 謝罪していたら→加害者が罪を認めたことになる
- 謝罪していなかったら→「非人道的だ」と非難されることになる
という理由だから、ということも。
しかし、こういった「逃げ」の対応は、時として逃げおおせたはずの本人を追い詰めてしまう。私はそう思うのです。
▶人間は、過去に囚われる生き物
・デフォルトモードネットワーク
人間の脳には、「デフォルトモードネットワーク*1」という部分があり、自我や過去への執着を司ると言われています。
そして、この部分は人間の休息時にもアイドリング状態で働き、相当なエネルギーを消費しています*2。
言い換えれば、過去への囚われがいかに人間の精神において大きなウェイトを占めているか、ということ。フラッシュバックによって、過去のつらい経験を何度も味わっている人であれば、よりよく理解できるでしょう。
これを踏まえた上で、もし心の中に未解決の問題を持っている人がいたらどうなるか?考えてみたいと思います。
・良心の呵責
例えば、あなたが友達のカバンから何かを盗んだとします。相手は、それに気づきません。あなたは追及されなかったことに安心し、まんまと自分のものにしてしまう。
しかし、どんな人間にも良心が備わっています。普段は平気なつもりでも、時折「あんなことをしてしまった」という気持ちが、顔をのぞかせる。そして、必死で振り払う。こんなことを、多くの人が経験してるのではと思います。
・ストレスが精神を蝕む
こんな自己嫌悪は、またたく間に過ぎ去ります。だから、大したことにも感じないでしょう。しかし、実際には、着実に精神を蝕んでいきます。
- 過ちに向き合わなかった後悔
- 逃避行為の正当化
- 相手への申し訳なさ
これを何度も反芻することになるのです。
私にも経験がありますが、何年経っても忘れられるものではありません。命に関わることをしたわけではありませんが、規模の大小はあれど、後ろめたさの点では同じです。
そういう人の心には、いつも何かがわだかまっている。そして、心の底から笑うことを許さないのです。
・教訓として捉える
このことに気づいてから、私は何でも真正面から捉えることにしています。
言い訳やごまかしで逃げるのではなく、その場で解決する方法はないか?
地雷を踏んでしまったら、即座に場を和ませる方法はないのか?と。
逃げるのは簡単ですが、もともとフラッシュバックに陥りやすい体質。もし、後ろめたさを残してしまったら、その後何年も何十年も自分が苦しむことになるでしょう。
だからこそ、自分のために「逃げずに向き合う」。相手のため、ではありません。飽くまで自分のためにです。
今回の加害者の方は、今後どんな対応を取るのでしょうか。
あまりにも、つらい事故。起きてしまった事は、取り戻せません。でも、逃げれば逃げるほど、苦しむことになる。
これは、私たちにとっても教訓だと思うのです。
*1:「心身医学における安静時機能的 MRI 研究」(2016)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpm/57/7/57_724/_pdf/-char/ja 2019/4/25閲覧。私の罹患した神経性やせ症や、肥満、失感情症とも関連があるとのこと。
*2:吉田太郎著(2018)『タネと内臓』築地書館、pp.109-111。