発達障害傾向ですが、「営業」できました。

発達障害の傾向がある元・営業が、「人並み」に働くための仕事ハックと「生きづらさ」に向き合う日々を書いています。

「私見ですが」に見る、私たちの生きづらさについて。

「これは私見ですが」という言葉を、よく耳にします。

もはや一般的になったこの言い方ですが、目立って使われ出したのは最近のこと。

芸能人だったり、一般人だったり。色んな人が多様な文脈で使っていますが、考えてみれば奇妙な表現です。

一体、なぜこんな言い方が必要なのか?これを考えたとき、私たちの「生きづらさ」と直結していることに気が付いたのです。今回は、そのお話を。

▶意見についての暗黙の前提 

「これは私見ですが」という但し書きの背景。

そこには「公の場に出す意見は、"社会通念"に照らした時、大多数から見て"納得のいく内容"でなければならない」という暗黙の前提があるのでは、と私は思います。

「社会通念」も「納得のいく内容」も、それ自体が根深い問題を孕むもの。ただ、それは一旦置いておいて、上の前提について考えてみます。

 

▶社会通念とのズレが怖い

あらゆるタイプの意見は、特に断りがない限り、すべて個人の考えです。また、組織の一員であったとしても、発信者が個人名を使う限り、受け手は本人の意見だと考えるでしょう。

なのに、そこに「私見ですが」という言葉を付け加える。これは、ちょうど「頭痛が痛い」と同じように、蛇足でしかありません。

こんな余計な言葉を使わざるを得ないのにはいくつかの要因が考えられますが、大きいと思うのはこの2つです。

  • 「所属組織を代表しての意見」ではないことを明確にすることで、多方面からの非難を避けたい
  • 一個人の意見だと強調することで、それが「社会通念」とズレたものであっても許容してほしい、と言外に求めている

そして私は、後者の方が、大勢を占めるのではないかと思うのです。

 

▶他者への過剰な忖度

日本というのは、同調圧力に押しつぶされたような社会です。隣人が隣人を圧迫し、SNSでは顔も名前も知らない相手に自分と同質の意見を求める。そして、少しでもそれと違えば、徹底的に叩きのめす。こんな現象が、毎日、飽きるほどたくさん起きています。

そして、こんな状況に順応するために私たちが取る行動とは何か。

それは、「他人の求める普通」を選りすぐって発信し、(多数の賛同は得られなかったとしても)少なくともNOとは言われないように注意する。これが、防御本能として普通の行動だと思います。

 

▶他者とはそもそも誰なのか?

でも、よく考えてみたら、その普通のスタンダードとなる「他者」ってそもそも誰なんでしょうか?

他者と言うのは、自分以外の全て。親も、子供、配偶者も、その辺を歩く見知らぬ人たちも、全員他者。日本人も、外国人も、ひっくるめてです。

当然、生まれ育った環境や思想信条もバラバラ。大事なものも、違います。そんな彼らの思う「普通」に対応することなんて、たった一人の人間にできたことでしょうか?そして、そもそも彼らの頭の中を想像することなんて、可能なんでしょうか?

 

▶不可能を完璧にこなそうとする自傷行為

そう、できるはずがないんです。

現実社会でも、SNSでも、すれ違う人たちは皆自分とは違う顔して、自分とは違う家庭で育ち、自分とは違うものを食べ、自分とは違う方法で健康になろうとし、自分とは違う趣味を持ち、自分とは違うものにお金をかけ、宗教も仏教徒だったりイスラム教徒だったり、自称「無宗教」だったり、様々です。

そんな人たちの考える普通の最大公約数「だけ」を自分の頭から抽出しようなんて、100%不可能。その不可能を、私たちはやろうとしている。そのために、意味もない「私見ですが」などという言葉で辻褄を合わせようとする。こんなにストレスフルで、自分自身を痛めつけるやり方が、他にあるでしょうか。

 

▶SNSという逃げ道

こうやって傷付いた人たちが、向かう場所。それが、SNSであり、彼らこそが炎上への加担者だと私は思います。誰かに苦しみを分かってもらいたくて、さまよい歩き、慰め場所を探している。

苦しみが苦しみを再生産し、連鎖反応を起こしていく。一度その世界に入り込んでしまったら、抜け出すことは容易ではありません。

 

▶抑圧と矛盾

突き詰めて考えれば、一体この国の人たちは何のために生きているのか?と疑問に思うのです。

極めて公共性の高い、大多数の合意が得られそうな意見だけを選んで発信し、それにすら批判が来ないかとビクビクしている。

ある人たちは、「人様に迷惑をかけないように生きる」ことこそ大事、とすら考えているようです。これって、まるで彼らの生きる目的が「他人のため」であるように思えてなりません。

そのくせ、忌憚ない意見(に似せて創作されたもの)を口にする著名人には、あたかも意見の代弁者であるかのように共感し、賞賛する。まさに異様な光景です。

 

▶人間は自分自身のためにしか生きられない

再確認しないといけないのは、私たちが生きるのは他人のためではなく、自分自身のためである、ということ。

会社で働くのは、「会社のため」という体裁をとっていますが、自分が生きるため。子供を精一杯世話するのも、もちろん子供の生きる手助けではありますが、究極的に言えば死ぬ前に「あぁ、私はこの子のために全力を尽くせなかった」という後悔をなくすためです(私にとってはね)。

どんなに他人の顔色を窺って、求められることを完璧にこなしたつもりでも、相手の評価基準など直接知ることはできません。どんな恩に何をもって報いるか、決めるのも相手です。だから、「こんなに尽くしたのに、対価はたったこれぽっちか」と怒りが込み上げる。他人のために生き続けると、辿りつくのはそんな恨みの境地です。

折角の人生を、こんな精神的不自由の中で終えるのは、果たして幸せと言えるのでしょうか?

 

人間は、望みさえすれば、自由を手に入れられる。こう、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは言いました。

私見で、いいじゃないですか。自由にものを言って、何が悪いんですか。

他者ではなく、自分のために生きる。そんな選択について、考えてみませんか。

 

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

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